昔々、ある所に沙夜ちゃんという女の子が居ました。
 沙夜ちゃんは母親に虐められ、ろくにご飯も食べさせてもらえずひもじい日々を送っていました。
 冬の凍りつく日にベランダに放り出されて沙夜ちゃんの命は風前の灯火でした。

 ―――このベランダから飛び下りれば天国へ逝けるかしら。

 そう考えた沙夜ちゃんはベランダの手すりをよじ登ってみました。
 沙夜ちゃんが見降ろした下界は小さく見えました。
 沙夜ちゃんはいったん躊躇しましたが、次第にこう思いました。

 ―――空さえ飛べればこの世界から飛び出していける……

 沙夜ちゃんはベランダから降りて空を飛ぼうとしました。
 この世界から出て行く為に。

 ですが沙夜ちゃんには空を飛ぶ方法は分かりませんでした。
 ただ地面へ落ちるだけです。

 沙夜ちゃんは次第に速く落ちていくのを感じて、「ああ自分は死ぬのだな」と思いました。

 ですが、沙夜ちゃんは信じられない物を観ました。

 空から『隙間』が現れ、その隙間から伸びた白い手が沙夜ちゃんの体を掴んだのです。

「あらあら。その年で自殺すると賽の河原で石積みをさせられるわよ。地獄も今は飽和状態ですからね」

 隙間から伸びた手はそういいました。

 ですが沙夜ちゃんは隙間の手に言い返しました。

「お母さんには私の存在が邪魔なの。だからお母さんの為にこの世界から居なくなります」

 沙夜ちゃんのお母さんは離婚していて沙夜ちゃんが居るから結婚出来ないと常日頃から言っていました。
 だから沙夜ちゃんはこの世界から飛ぼうとしたのです。

「辛い人生を送って来たのね……」

 隙間の手は沙夜ちゃんに優しく語りかけました。

「貴女は大人になるまでこの世界では生きていけないでしょう。ですが幻想の郷では生きていけるかもしれません」

「私は飛べるの?」

「飛べますよ」

 その隙間の手は、まさに沙夜ちゃんにとって救いの手に見えました。

「では行きましょうか。私の愛する幻想郷へ」

 沙夜ちゃんを掴んでいた隙間の手は、力強く沙夜ちゃんを引っ張りました。
 沙夜ちゃんのやせ細った体はその『隙間』へ呑みこまれたのです。



 後には何も残りませんでした。
 沙夜ちゃんはこの世界から居なくなってしまったのです。




 それから一体どれくらいの時間が経ったでしょうか。
 沙夜ちゃんが目を覚ました時には既に違う世界でした。
 空気は澄み渡っており、川のせせらぎが聞こえ、生い茂る木々が覆い尽くす。
 ここは大自然の中でした。

 まず沙夜ちゃんはお腹が空いています。
 このままでは死んでしまうと思いました。

 まず近くに川を見つけました。
 元の世界にあった濁ったようなドブ川ではなくて透き通った綺麗な水です。
 まず喉の渇きを癒すべく、沙夜ちゃんは這いずって川の元へ向かいました。

 沙夜ちゃんがこんな美味しい水を飲んだのは初めてでした。
 ミネラルウォーターなんか呑ませてくれなかったし、水道水なんかよりもよっぽど美味しかったからです。
 ですが水を呑んでもお腹は満たされません。

 川で泳いでいる魚が目に映りましたが、それを捕まえて食べるにしても弱った沙夜ちゃんでは泳ぎ回る魚を捕まえる事は出来そうにありませんでした。
 ですがお腹は空いたままです。
 しかし、自分を救ってくれたあの手も今は姿が見えません。

 何か食べたい……沙夜ちゃんは縋るように周囲を見渡しました。
 すると木で出来た籠にたくさんのキュウリが入ってるのが見えました。
 誰かが捕ったキュウリだと思いますが、お腹のすいた沙夜ちゃんにはそこまで頭が回りませんでした。
 沙夜ちゃんは籠のキュウリをむしゃむしゃと食べました。

 瑞々しいキュウリは味気ない物でしたが、お腹のすいていた沙夜ちゃんにとっては天の恵みでした。
 ですがそのキュウリは誰かの持ち物だったのです。

「げげっ!人間!?」

 突然、見えない所から叫び声が聞こえました。
 いきなり現れたのは緑のお姉さんでした。

 このキュウリはこの緑のお姉さんの物だったのでしょう。
 沙夜ちゃんは涙を浮かべながら謝りました。

「ごめんなさい……とてもとてもお腹がすいていたの」

 緑のお姉さんも沙夜ちゃんがとても痩せ細ってる事に気が付きました。

「あんた、まさか外の世界から来た人間かい?」

 緑のお姉さんの話から、沙夜ちゃんはここが『違う世界』である事に気が付きました。

「はい、隙間から伸びた白い手が私を連れてきてくれたのです」

 沙夜ちゃんはそう説明しましたが、緑のお姉さんはちょっと戸惑っているように見えました。

「ありゃー。幻想入りした人間かー。でも食べるにしてもこんなに痩せてたら食べがいが無いし、かと言って天狗様に見つかったら大変だろうなー」

 緑のお姉さんは見つけた沙夜ちゃんをどうしようか悩んでいました。

「ごめんなさい……とてもお腹がすいていたの」

 沙夜ちゃんは緑のお姉さんに悪い事をしたと思って謝りました。
 ですが緑のお姉さんも優しくこう言いました。

「いやいや。お腹がすいてたんなら仕方ないよ。それに河童は人間の盟友だからね」

 ですがそこに別のお姉さんが二人現れました。白いお姉さんと黒いお姉さんでした。

「誰だ!?」

 叫んだのは白いお姉さんでした。

「げげ!大天狗様!?」

 緑のお姉さんはすごく驚きました。

 白いお姉さんは沙夜ちゃんを睨みつけました。

「そこのそれは人間か!?」

 白いお姉さんは両手に剣と盾を持っていました。
 口から鋭い牙を剥き出しにしています。

「ちょうど良い。そこの人間を酒のつまみにしてやろう」

 そして白いお姉さんは沙夜ちゃんに近づいていきました。

 沙夜ちゃんは怯えましたが足がすくんで動けませんでした。
 白いお姉さんが今にも沙夜ちゃんに噛みつこうとしています。
 ですが噛みつかれる前に、後ろに居た黒いお姉さんが言いました。

「白狼、その人間を殺すのは待ちなさい」

その黒いお姉さんは背中からカラスのような黒い翼が生えていました。

「ですが大天狗様……」

 白いお姉さんも黒いお姉さんには頭が上がらないようです。
 それどころか緑のお姉さんも黒いお姉さんには頭を下げていました。

 黒いお姉さんは白いお姉さんと緑のお姉さんに言いました。

「ちょうど次の巫女を探す時期でした。探す手間も省けて良かったではありませんか」

 そして黒いお姉さんは沙夜ちゃんの元まで近づいて囁きました。

「あなた……名前は?」

「沙夜です」

「沙夜ちゃん……あなたには家はありますか?」

 沙夜ちゃんに帰る家はありません。
 もうお母さんの居る家には戻りたくなかったのです。

「帰る家はありません」

 すると黒いお姉さんはニッコリ笑って言いました。

「では神社で暮らしてみてはいかがでしょうか」

「神社……ですか?」

「ええ。あなたは幻想郷の巫女になるのです」

 後でわかった事ですが、このお姉さん達は人間ではありませんでした。
 緑のお姉さんは河童。
 白いお姉さんと黒いお姉さんは天狗という妖怪だったのです。
 黒いお姉さんは天狗の中でも特に偉い「大天狗」だったのでした。
 大天狗は巫女となる人間を探しており、沙夜ちゃんを巫女にしようとしたのです。

 ですがそこまで知らなかった沙夜ちゃんは黒い大天狗の言う事に頷きました。

「はい。私は巫女になります」

 昔々、沙夜ちゃんはこうして「巫女」になりました。
 ですが巫女になる為に沙夜ちゃんには苦しい日々が待ち受けていたのでした。
 果たして沙夜ちゃんは幸せになれたのでしょうか。
 これはそんな彼女のお話です。


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