幻想郷の竹林にはとある屋敷が立っている。
永い間、誰にも気づかれずにひっそりと建っていた場所だ。
のだがここ最近になって幻想郷の住人達にもようやく知られた場所だった。
その名を永遠亭と呼ぶ。
−−−−−
「うーんうーん……」
永遠亭に住まう玉兎、鈴仙・優曇華院・イナバは寝込んでいた。
お布団の中で鈴仙は一体どのような悪夢を見ているのか見当はつかない。
だが傍目から見ても苦しそうな事は分かった。
「はっ。ゆ、夢か……」
だが鈴仙は飛び起きるように目が覚める。
かなり酷い悪夢を見たらしく、びっしょりと冷や汗をかいていた。
「……またお仕置きオチか……よっこいしょっと」
さる人物の”お仕置き”を受けて深刻な身体的なダメージを受けた鈴仙だが、今はすっかり完治している。
この辺り、玉兎と言っても妖怪とあまり変わらないのかもしれない。
というか実際、幻想郷では鈴仙も妖怪兎として扱われている。
よく巫女などの人間に「今夜は兎鍋ね」などと脅される事も多い。
兎は幻想郷に住む人間の主食なのだ。
巫女のような妖怪退治の専門家のみならず、人里の一般人にもよく食されている。
幻想郷は平和ではあるのだが、最低限の弱肉強食は存在しているという事だ。
そうしなければ死んでしまうのである。
鈴仙は月に住んでいた頃の飼い主が『地上に生きる者は弱肉強食に晒され続けます。それこそが穢れであり罪なのです』と語っていた事を思い出す。
地上に這いつくばって生きる存在という観点からすれば、人間と妖怪の違いなど大して無いのだ。
「……ま、楽しいからいいけどね」
だが鈴仙は地上暮らしも悪くないと思っていた。
妖怪として扱われる鈴仙だが、どこかへ封印されたり精神的な手段で殺されそうになる事は無かった。
かつての地上人は臭い物に蓋をするかのように妖怪達を地底へ押し込めたそうだ。今でも地底は封印が施されており、誰も入れないようになっている。
だが今の幻想郷は地底へ封印するという風習は存在していない。
これは人間が妖怪を恐れているという訳ではなくて、むしろ人間と妖怪の新たな関係の一環なのだろうと鈴仙は解釈している。
「さて着替えようかしら」
鈴仙は汗を吸った衣服から着替えようとする。
そこで一つの事に思い至る。
「そうだ。久々にフェムトブレザーでも着てみようかしら」
フェムトブレザーは穢れを防ぐフェムトファイバーで編まれたブレザーの事である。
玉兎の一般的な衣服であり、鈴仙も地上に逃げて来る際に着ていた物だ。
最近はいつもフェムトブレザーを着ている訳ではない。
久しぶりに着てみようと鈴仙はフェムトブレザーを探そうとするのだが……。
「あれ? どこに仕舞ったっけ」
だがタンスにフェムトブレザーはなかった。
どこに仕舞ったか必死に思い出そうとしながら、フェムトブレザーを探す鈴仙であったが……。
「何を探してるのー」
そんな鈴仙の元に、何か黒い物を持っている小さな妖怪兎が現れる。人間の姿ではなく可愛らしい白兎だ。
この兎の名前は因幡ちゐと呼ぶ。
ちゐは妖怪兎のリーダーの部下で、妖怪兎の中ではそれなりに知恵も働く方である。
とは言え鈴仙はあまり妖怪兎の社会については関与していない。
リーダーを押さえれば何とかなると思ってるからだ。
それはさておき鈴仙はちゐが持っている物に目がいった。
「ッ! それそれそれ私のフェムトブレザー!」
鈴仙の物と思われるフェムトブレザーは、ちゐが勝手に持ち出していたのだ。
妖怪兎はみんな悪戯好きである。まるで妖精のような兎が多いのだ。
「言われなくても返さないー」
ちゐはフェムトブレザーを持ったまま部屋中を飛び跳ねた。
妖怪兎の跳躍力はかなり高く、普通に捕まえるには骨が折れる。
だが鈴仙は全く動じる事はなく、まず紅い瞳を光らせた。
「ったく。地上の兎ってのは……」
次の瞬間、鈴仙がまるで瞬間移動したように立ち位置を変えていた。
その上、ちゐの手元にあったはずのフェムトブレザーが鈴仙の手元へ移っている。
時間を止めるだとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてなかった。
「あれー何が起こったのー」
「っふ……狂気を操る程度の能力を持たぬ兎にはわからんでしょう……」
鈴仙ひいては玉兎の持つ固有能力が狂気を操る程度の能力である。
狂気と言ってもその能力は幅が広い。
物体が持つ波動、精神が持つ波動、電磁波、光、方向、波長、位相、振幅などありとあらゆる物を狂わせる。
しかも効果範囲はとても広い。
逃げ出したてゐを閉じ込めるべく迷いの竹林の全域に能力を発生させ、中に居る生きものを竹林の外へ出れなくする事も出来るくらいだ。
今回もこの狂気能力を使って錯覚を起こし、まるで瞬間移動をしたように見せかけた。
波長を狂わせる事によってちゐから触覚と時間間隔を一瞬だけ奪い、その隙にフェムトブレザーを奪い返したのである。
今のように瞬間移動したように見せかける程度ならば大抵の玉兎でも出来るだろう。
玉兎とはこのように攪乱能力に特化した能力を持っているのだ。
更に鈴仙は特にこの能力の扱いに長けているのだが……。
「ヘタ鈴仙のくせにー」
「ヘタレ言うな!」
鈴仙はヘタレだった。
攪乱能力に長けていても戦闘力が高いとは限らないのである。
例えば鈴仙はスペルカード戦において波長をズラしたうえで敵に弾幕の幻視をさせる戦術を得意とする。
だが幻視させっぱなしだと別次元の攻撃でしかないから元に戻す。すると相手は幻視を利用して鈴仙の弾幕に潜り込むという訳だ。
幻視させなければ鈴仙の弾幕はかなり厚い。
波長をズラすのが上手い鈴仙だが、そのせいで弾幕の難易度調整はあまり上手くないのが鈴仙だったりする。
しかしヘタレというのは戦闘力に限らず、メンタル面での弱さも含まれている。
鈴仙には逃亡癖があり、精神的に追いつめられると家出する事がたまにあったりする。
ただ鈴仙が逃げ出すにしても理由がある。
「それで私は何日寝てたのかしら」
「みっかー」
「そっか、三日か。前は師匠にお仕置きされたら一週間も寝込まされてたのになぁ……」
鈴仙はよく”お仕置き”を受けて寝込む事がよくある。
個性豊かな永遠亭の住人によって振り回される鈴仙は、最後に割を食う事が多い。
とりあえず鈴仙が寝込めばオチになるのだ。なんのオチかはさておき。
しかし以前に比べるとお仕置きの内容も少しは落ち着いて来た。
それでも傍目から見ると苛烈な内容ではあるのだが。
「そういや、てゐはどこ行ったの? 今日は満月でしょうから例大祭の準備をさせたいのに……」
”例月祭”とは鈴仙の師匠が考案した永遠亭で満月の日に毎月行われる祭りのような物である。
薬草が入った餅を撞いて捧げたり、あるいは丸い物を集めて祀るのである。
団子など丸い物を偽の満月に見立てて、相対的に満月を遠ざけるのだ。
これは罪人である輝夜、永琳、鈴仙の罪を償うための儀式とされているが、本当の狙いは別の所にある。
例月祭を行うには兎達を動かさなければいけない。
それには兎のリーダーである因幡てゐの力を借りなければいけない。てゐの号令がなければ兎を御する事は出来ないのだ。
しかしてゐは少なくとも鈴仙の言う事は聞かない。
「って、ちょっと聞いてんのアンタ!?」
「ぼうけんだー♪ ぼうけんでーしょでーしょ♪」
ちゐは話なんか聞いてなかった。
ついでに言うとその辺の兎も鈴仙の言う事は聞かない。
「こら待ちなさい!」
「ふにゃー」
鈴仙は先ほどの狂気能力を用いてちゐを捕獲。そのまま、アイアンクローで締めあげる。
その圧力はてゐも片手で持ち上げる程である。というか普段はてゐへのツッコミに使っている。
弾力のあるちゐの身体を引っ張る鈴仙。かなり過激なツッコミであった。
そんな現場に、一人の少女が姿を現す。
「あら鈴仙。もう大丈夫なの?」
「あ、姫様。大丈夫ですよ、だいぶ寝ましたから」
永い黒髪の少女。
彼女の名は蓬莱山輝夜。表向きは永遠亭の主とされている。
元は月人だったが罪人として何かしら悪い事をして地上に落されて今に至るらしい。
まがりなりにも鈴仙にとって上司の一人なので、逆らえない。
その隙を突いてちゐは鈴仙のアイアンクローから抜け出し、輝夜の頭上へ乗っかる。
「ひめさまー。鈴仙がちゐをいじめる―」
「あら、鈴仙。イナバを虐めちゃ駄目よ」
「え、いや虐めてませんってば!」
輝夜はあまり妖怪兎の区別を付けていない。大半の兎の事をイナバと呼ぶ。
ただ鈴仙は輝夜の過去は知らないが、現在の輝夜は波長がとても長い。
波長が短ければ狂っている。波長が長ければ暢気である。
つまり波長が長い輝夜はとても暢気なのだ。
そういった事もあってか輝夜は妖怪兎に懐かれていたりする。
「それより鈴仙ー。イナバ達はどこ行ったのかしらー。お布団が寒いわー」
「お布団が寒いのは兎を湯たんぽ代わりにするからですよー」
「そう? 今日は早起きしたから眠いの……おやすみ……」
「駄目ですよー。昼夜逆転はお師匠様が怒りますよー」
「くぅ……zzz……」
輝夜はちゐを抱いたまま鈴仙のお布団で眠った。妖怪兎を布団の中に入れて寝ると暖かいらしい。
暢気というか自堕落なだけな気もするが、それはそれとして。
実際、いつもの永遠亭ならてゐは居なくても誰かしら妖怪兎が跳び回ってるはずだ。
しかし実際見当たらない。恐らく殆どの兎はてゐについて行ってるのだろう。
どうせ悪戯してるに違いないと鈴仙は解釈した。
鈴仙は眠った輝夜を放っておいて、とりあえずてゐを探しに行こうとした。
だがそこでもまた鈴仙は呼び止められる。
「あらウドンゲ? 起きたの?」
「お師匠様!」
鈴仙をウドンゲと呼ぶ銀髪の女性は八意永琳である。鈴仙にお仕置きをした張本人だ。
事実上、輝夜の代わりに取り仕切ってるような人物である。
現在は罪人として追われてる立場らしいが、かつては月の頭脳として月の都の設立に携わる程の人物であった。
しかし最近は少しだけ波長が長くなった気がする。
「これはそのアレでしてねぇ」
「アレじゃわからないわ。それよりも輝夜は寝てるようね。その子は放っておいていいからウドンゲはちょっと来なさい」
「……何があったんですか?」
だが永琳の持つ波長が普段よりピリピリしてる事に鈴仙は気付く。
この波長は警戒を強めている時に出す波長だ。
そして永琳が最も警戒している相手とは、幻想郷に住む人間でも妖怪でもない。月の都なのである。
「貴女の言っていた最近の月の情勢、いよいよもって真実味を帯びて来たわ」
永琳は緊張を隠さずに言った。どうせ鈴仙に波長を読まれてる事は周知の事実なのだろう。
「月の情勢? ああ……月に新たな勢力が生まれてる噂ですか?」
玉兎の能力には離れた所に居る同族と連絡を取り合うという物もある。
永琳は鈴仙を介して月の情勢を探らせていたのだ。
そして鈴仙曰く、最近は月で新たな勢力が生まれつつあるという噂を耳にしたのだ。
「そうよ。最近は月光が生み出す影に大きな変化が見られるわ。影が段々と質量を持つようになってきてる。これは影が月を覆い尽くす不穏な動きがあるという事よ」
「な、なんだってー!? マジですか、それ」
「大マジ」
永琳の理論からすれば、何かしら不穏な動きがある事は確実らしい。
どういった形かは分からないが、それが鈴仙の言う新たな勢力と何かしら関係がある可能性は高い。
そして永琳が最も恐れている事態が起こりかねない。
「この様子だと月の都と新たな勢力の間で月面戦争が起こってしまうでしょう。それどころか”月の使者”が幻想郷に攻め入ってくる可能性もあるわ」
月の使者とは、地上と月の外交を務める部署の事だ。
かつて永琳は月の使者のリーダーとして働いていたのである。
だが、とある任務の際に部下の玉兎達を皆殺しにして逃亡した事で罪人となった。
永遠亭も元々は月の使者から身を隠す為の”籠”のような物だった。
それからてゐ・鈴仙との接触、そして幻想郷住人とのイザコザを経て現在に至るという訳である。
だが月の使者から身を隠す事を止めてでも、幻想郷の住人として過ごす事を決めた理由は他にもある。
「そ、そんな!? だって霊夢が言ってたじゃないですか? 幻想郷は博麗大結界があるから外から入ってこれないって!?」
幻想郷は博麗大結界という二重結界で隔離されている。
外の世界からは決して入ってこれないであろう結界。
幻想郷を牛耳ってる巫女、博麗霊夢は『大結界があるから外から入ってこれる事は無いわよ』と言ってたはずなのだ。
少なくとも輝夜と鈴仙は霊夢の言い分を信じていたのだが……。
「霊夢が月の技術力を把握してる訳ないじゃないの。そもそも博麗大結界の理屈も完全に理解してるか怪しい所ね」
永琳はそう言い切った。
霊夢とは何も考えてない適当な女である。
そもそも霊夢に限らないが幻想郷の人間は月の技術力についてよく知らないだろう。
「それにウドンゲだって幻想郷に入って来た事から少なくとも月の羽衣であれば博麗大結界を超えられる。それ以外の手段だっていくらでもありそうなものね」
地上と月を行き来する際に使われる月の羽衣は着用すれば正気を失わせる副作用もある。
だが常識の結界でもある博麗大結界にとって、正気を失った生き物は取り込みやすい性質があるようだ。
鈴仙が幻想郷に来た際も月の羽衣を着ていた事から考えられる事態である。
兎にも角にも博麗大結界は万能の結界ではないのだ。
最近だって外の世界から大国主の眷属の神を祀っている神社が幻想入りして、霊夢や妖怪の山を巻き込んでゴタゴタがあったという噂もあるくらいだ。
博麗大結界が幻想を受け入れる境界である以上、幻想入りの可能性は常に考えられる。
「でもお師匠様……使者が幻想郷に攻め入って来る理由って……」
「月の使者が輝夜やウドンゲを連れ戻す為でしょうね。下っ端の玉兎なら何羽来ても亡き者にするのは容易いのだけど、それをすれば月に居場所がつきとめられる」
「え、ええ……」
永琳が危惧している事とは今でも月の使者が自分と輝夜を連れ戻そうとしている可能性だ。
可能性はあくまで可能性であって事実ではない。鈴仙もその辺はよく知らないと言っている。
しかし最悪の可能性を想定した上で、その事態を回避する為に手段を選ばないのが永琳という人物だった。
”手段を選ばない”という事は障害となる存在を殺害して排除する事も含まれている。
「そして使者のリーダーを務めてるはずの人物との戦闘も考えられるわ。最悪、月人同士の争いに幻想郷を巻き込んでしまうかもしれない」
「月の都では地上の穢れた物質をまるごと素粒子に浄化してしまうような兵器も作られてます! そんなものを仮に使者様に使われたら幻想郷は壊滅しますよ……」
「それはスペルカードルールなんていう生ぬるい遊びじゃない。正真正銘の虐殺よ」
「……そんな」
月人同士の争い。
それが幻想郷で行われればどれほどの被害が出るか見当もつかない。
しかし月の使者が仮に輝夜や鈴仙を連れていく為に手段を選ばないような人物であれば、幻想郷は滅び去ってしまうだろう。
永琳も素粒子兵器については知っている。
兵器ではないが地上の物質を素粒子に変える扇子はあった。
だが、あの扇子は地上一帯を壊滅させるような殺戮兵器ではなかったはずだ。
……
…………
………………
永琳は少しだけ月の使者だった頃を思い出した。
ある日、扇子の姫は落ち込みながら永琳の元を訪ねたのである。
どうやら兎に騙されてきたらしい。
『八意様。私は扇子を使って兎の皮を剥いで、そのまま地上に放置してきました。私に能力を使わせる為に嘘をついた兎が悪いのです』
ただ永琳が知る限りでは、その扇子を持った姫は暢気ながら人の良い少女だった。
本来は皮を剥いだ兎とも仲が良かったのだ。
その兎の事は永琳もよく覚えていないのだが……。
『それでは今ごろ兎は性の悪い土着神達に嫌がらせを受けてるかもしれないですね』
永琳は扇子の姫にそう説いた。
すると姫は見る見る内に血相を変えたのである。
『今すぐ兎を連れてきます。八意様のお薬で何とかしていただけませんか?』
それから姫は兎を連れて来た。
が、なにぶん昔の事なので『そういった事があった』程度にしか覚えていない。
………………
…………
……
とりあえず永琳が知っている素粒子扇子とは、扇子を一振りすれば素粒子に浄化する物だ。
だが決して生きものの命を奪うような物ではなく、あくまで皮や着物を素粒子にする程度の器用な物でしかなかった。
鈴仙の言うような幻想郷一帯を壊滅させるような代物ではないのである。
永琳が月から逃げ出した後にそのような兵器が開発されたか。
あるいはその姫がおかしくなって素粒子扇子を虐殺兵器へ魔改造してしまったか。
ありとあらゆるケースを想定する永琳は、どちらの可能性も有り得ると考えていた。
「安心なさいな。私も輝夜も幻想郷は住みやすい土地として気に入ってるし、そんな兵器なんて使わせないわ。例えどんな手段を用いても……」
そして幻想郷を壊滅させうるであろう素粒子兵器なんて代物が生み出されてしまった可能性そのものが、永琳の考える最悪のケースなのだ。
今の永琳には守らなければいけない物が沢山出来た。
何よりも最優先して守るべき物は輝夜だが、鈴仙に対しても味方である限りは情もある。地上の兎達に対してもだ。
また幻想郷の今の生活も嫌いではない。少なくとも月人の争いに幻想郷を巻き込む事は永琳も避けたいと考えていた。
「では師匠はどうするおつもりですか?」
「また満月を隠しましょう。現状では第二次永夜異変が最もリスクの少ない展開です」
かつて永琳は月の使者を警戒して満月を隠した事がある。
そうすれば月の羽衣を始めとした大半の移動手段を封殺する事が出来るのだ。
しかし、それは月の光を力に変える妖怪にとって傍迷惑な異変だった。
そして幻想郷の妖怪達は人間と組み、夜を止めてまで永遠亭に殴り込みに来たのである。
それが『永夜異変』だ。
永琳とも面識がある人間の里の歴史家は、「近年では人間・妖怪ともに被害を被った危険な異変であった」と語っている。
それほどの異変を再び起こしてでも、月の使者との戦闘は避けなければいけないと永琳は考えていた。
「月人同士の戦争よりは、マシですしね」
「ええ、平和ボケした今の妖怪よりバカげた兵器を生み出す今の月の民の方が恐ろしいからね」
平和ボケしているのは本当だ。
スペルカードは圧倒的な能力を用いて相手を負かす事よりは、お互いに楽しむ事を目的としたルールである。
またスペルカードその物が「妖怪を否定しない妖怪退治」「人間を食い殺さない人間捕食」でもある。
スペルカードとは殺戮を出来る限り排除した模擬戦闘なのだ。言うならば遊びである。
ただ輝夜も、輝夜を付け狙うとある地上人も、永夜異変の後はスペルカードルールを楽しんでいる事もある。
そういった事もあって、永琳個人としてはスペルカードも嫌いではない。
しかし月人がそれを請け負ってくれる確証はないのだ。
鈴仙の言う『幻想郷一帯を壊滅させる素粒子兵器』なんて代物を作り出すようになってしまった月人だ。
スペルカードというぬるま湯に浸かった、今の幻想郷の妖怪が月人に敵う訳がないと永琳は考えている。
「……分かりました。今宵の例月祭が終わった後、準備をしたいと思います」
永琳は最悪のケースを避ける為なら手段を選ばない女性だった。
そして恐らく永琳が月の使者を裏切る際に部下の玉兎を皆殺しにしたのも、最悪のケースを避ける為だった。
殺さない手段はいくらでもあったのだろうが、確実に逃げ切る事を選んだのだ。
「それでウドンゲ。月の使者のリーダーについて何か知らないかしら」
「へ? いえ、一介の玉兎に過ぎない私は全く知りません」
「実は私も現在の月の使者のリーダーであろう人物に目星はついてます。しかし輝夜を逃がす為に玉兎を殺して月を裏切った私を怨んでるかもしれないわ」
「本当に知りませんってば」
「そう、それならいいの」
そう言ってる間も鈴仙は内心でビクビクしていた。
だが自らの波長を操作する事によって、無理やり平静を保つ。
正直、鈴仙は永琳の手段を選ばない性質が恐ろしかった。
自分も永琳に消されるのではないかという死の恐怖が付きまとっていたのだ。
今まで数日寝込む程度のお仕置き程度で済んでいたのは一種の幸運だろう。
その幸運がどこから湧き出てくるかは知らないが。
「……でも第二次永夜異変なんてやろうとする暁には妖怪達が黙っちゃいないでしょうね」
鈴仙は話題を変えるべく、かつての永夜異変の事を思い出した。
あの時は傍迷惑な妖怪が傍迷惑な人間と共闘して永遠亭まで殴りこみに来たのだ。
勿論、また満月を隠せばまた妖怪が動き出すだろうという鈴仙の予測は妥当な物だ。
しかし永琳は別の事を考えていた。
「もしかしたら、この事態もその妖怪によって引き起こされているのかもしれないけどね」
「それはどういう事ですか?」
「……私にだって分からない事くらいあるわ」
少なくとも永琳が分かっている事は、本来なら使者を殺したくはないし永夜異変だって起こしたくはないという自分の感情くらいだ。
ただ恐らくあの妖怪はそろそろ動き出しているかもしれない。
−−−−−
一方その頃。
幻想郷の博麗大結界を形成している博麗神社では、紅白の巫女が縁側に座ってお茶を啜っていた。
昼下がりの一時としてはいつもの平和なノリである。
「ふー、やっぱりお茶屋は適当な茶葉しかくれないのかしら。どう考えても霖之助さんのお茶の方が良い茶葉使ってるし」
博麗霊夢は煎餅をボリボリ食べながらぼそっと独り言を呟く。
ついさっきお茶が切れたので人間の里まで買い出しへ出かけた直後だった。
だが行きつけのお茶屋は質の悪い茶葉を渡してくる。
「それは貴女が巫女として使えないからではなくて?」
霊夢の愚痴を聞いていたのか、空間にスキマが現れて白い手が飛び出して霊夢の煎餅に手を付けた。
普通の人間なら不気味に思う光景だが、霊夢はその手が誰の物かよく知っていた。
「なんだ、紫か」
その手はすきま妖怪、八雲紫。
ありとあらゆる境界を操る程度の能力を持った妖怪だ。
スキマからは手しか出していないのでその表情はよく見えないが、どうせ気持ちの悪い笑顔を浮かべてるに違いないと霊夢は思った。
実際、何かを企んでいるのだから霊夢の直感は当たっている。