前回までのあらすじ
 新軽音部の部長としての立ち位置に悩む梓は律と再会する。
 そして和菓子屋である律の実家へ遊びに行く事にしたが、律の祖父のファンキーさに圧倒される。
 そこで梓は律がベルフェゴール地味子(CV:佐藤聡美)である事を知るのだった。


〜〜〜Aパート〜〜〜

「これでラスト……っと……ふぅ」

 梓は首にかけたタオルで汗をぬぐう。
 庭に出たところで、エプロン姿で眼鏡の律が待っていた。

「お疲れさま、あーずさ。ご飯にする? それともお・風・呂?」

「殴っていいですかベルフェゴール先輩」

「ベルフェゴールって言うな!」

 と、そんなやり取りをしながら田井中家へ向かう律と梓の前に新たな人物が現れた。

「聡! 帰って来てたのかー」

「げ、姉ちゃん!」

 その少年は律の弟の田井中聡であった。
 とりあえず梓も彼に挨拶をしておく事にした。

「あ、どうも初めまして。ベルフェ……じゃなかった。律先輩の後輩の中野梓です」

「ど……どうも」

 だが聡の様子はどこかそわそわしている。
 年頃の女子高生が家に遊びに来たからなのか。
 いやそれだけではないようだ。

「聡ィ……もしかしてお前、また友達の女の子を連れ込んでんのか?」

 にやける律の尋問。
 だが聡は姉に図星をつかれたのか吹き出す。

「い、いやっ!茜とはそんな関係じゃないって!」

「茜?」

 梓が状況が掴めない中、どこかで聞いた事のある少女の声がした。

「聡ー。おばさんがご飯とお風呂のどっちにするかって……」

 その声の主がその場に現れた時、梓はさすがに驚いた。

「あ……」

「よ……横川さん?」

 そこに現れたのは軽音部の後輩、横川茜だったからである。
 それからお茶の間に向かう途中、梓は律からこう聞いていた。

「茜ちゃんは聡の中学時代の同級生っつーかバンド仲間?だったらしいんだ。で、うちに遊びに来る事も結構多かったんだ」

「意外な事実ですね。やっぱり横川さんはギターが凄かったんですか?」

「少なくとも唯よりは凄いんじゃね?」

「ハードル低すぎです」

 偶然とは恐ろしい物。これも人の縁である。
 だが茜はその間も居心地が悪いのか顔を伏せていたままだった。

「わ、私はもうギターを弾かないんです……」

 バンドを辞めるには色んな理由がある。
 飽きて止めること、人間関係がこじれる事、先輩が卒業して人数が足りなくなること。
 茜もまた過去に色々あったのかもしれない。
 その途中、廊下で風呂上がりの爺ちゃんと出くわした。

「お勤め御苦労! 褒美に一緒に風呂に入る権利をやる!」

「あんたもうるせえ。タオル一丁で孫娘と後輩とその後輩のそばを徘徊すんな」

 祖父に突っ込んだのは聡であった。
 女性率の高さに居心地がよろしくないのは彼も同じだったらしい。


 〜〜〜〜〜


 で―――特に何事もなく食事が終わって。
 いまはみんな、めいめいに食やすみをしている。
 だが梓の心境は複雑だった。

「(……ちょっと居心地が良くないかも)」

 その原因は恐らく横川茜の存在だ。
 梓は茜との付き合いの日も浅いが、未だ付き合い方の距離感がつかめずにいる。
 その茜も今はトイレへ行っていて居ないのだが、それでも空気は変わらない。

 そんな梓の居心地の悪さを察したのか律は聡が携えている楽器を指さした。

「ところでおまえ、なに持ってんの?」

 聡はこう答えた。

「これ? へっへー。今度のイベントで演奏すんだよ。おれのソウルを聴けぇーーってな! はっはー、カッチョいいべ?」

 べべべん、と、携えた楽器をかき鳴らす聡。
 だが律はずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。

「……でも、おまえが持ってるの三味線だよね?」

「……フッ、さすがねえちゃん、的確な突っ込みだな」

 聡は遠い目をして、自重するような吐息を漏らした。

「おれ金ないからギターなんか買えないんだってば!」

「だったらドラムやればいいじゃねーか。ていうか前のバンドでドラムやってただろお前」

「ドラムやだー! 後ろの方でスポットが当たらねえよ!」

「ドラマー舐めんな!」

 聡は姉の言い分など気にせずべべべん、と三味線をかき鳴らす。

「姉ちゃん。Cマイナーってどう抑えるんだっけ」

「三味線にCマイナーなんてねぇよ」

 そう突っ込んだと同時に律の携帯が鳴る。

「あ、電話だ」

 そして通話した途端に、律は叫ぶ。

「お前もかい!」

 律は電話相手に向かって叫んだ。

「梓に代わるからあいつに聞けよ……え?ああ、あいつちょっと落ち込んでるみたいだからさ〜。ああ、んじゃ代わるわ」

 そして律は梓に向かって自身の携帯を投げる。

「ほれ、梓。あんま長電話すんなよ」

「へ?」

 言われるがまま電話を取ると、よく知った声が聞こえた。

『あずにゃん!Cコードってどう抑えるんだっけ?』

「またですか、唯先輩!」

 電話をかけてきた相手は唯であった。

『だって受験中はギー太を封印してたんだも〜ん』

「唯先輩らしいですね……。ていうかFコードは大丈夫なんですか?」

『ああ、Fはちゃんと覚えてるよ〜』

 そして唯は電話越しにギターを鳴らしてみせる。
 その音色は確かにFコードの物だった。
 Fコードは初心者ギタリストの壁と言われるほど抑えづらい技術であるが唯は割とあっさり物にしていたらしい。
 もっと基本であるはずのCコードの抑え方はしょっちゅう忘れるのに。

「(相変わらず凄いんだか凄くないんだかよくわかんない人だ……)」

 とりあえず梓はCコードの抑え方を唯に教えてやる。


『おお、さすが!あずにゃん天才!』

「唯先輩がダメダメなだけです」

 これで用件は済んだと思って梓は電話を切ろうと思ったが、唯は別の話を始め出した。

『そういやあずにゃん。りっちゃんちに泊まってるんだって?』

「ええ。こき使われましたよ」

 電話越しで唯はふ〜んと何かを悟ったようにぼやいた後に、こう話を切り出した。

『ねえ、あずにゃん。これさ〜。憂にも言った事なんだけどね』

「なんですか改まって」

『私の事は心配しなくていいから、ね』

「え?」

 私の事は心配しなくていいとは、どういう意味だろうか。その答えを問いただす事はかなわなかった。

『平沢〜。ごはん』

 電話越しから聞こえたけだるい声は、唯と同じ寮に暮らしている若王子いちごの声だった。
 唯たちの住む寮は食事が当番制だが今日の当番は彼女なのだろう。

『あ、そろそろいちごちゃんが呼んでるから切るね』

「あ、はい」

『あずにゃんがんばれ!』

 そして唯は電話を切って行った。一方的に。

「どうだった?」

 問いただしてくる律に対して梓は携帯を投げ返しながら答える。

「いつもの唯先輩でした」

「だろうな」

 そう、いつもの唯だ。
 そのはずなのだが、どこか寂しい気がするのはなぜだろうか。

 『私は大丈夫』と唯は言っていた。
 唯が実家から離れて一人暮らしすると聞いて梓も心配していた。
 だが実際はこうしてなんとか寮生活を上手くやっているようだ。

 唯は前へ進んでいる。
 それは亀のような速度ではあるが、確実に歩みを止めていない。
 でも梓はどこへ行きたいのかは梓本人も分かっていないのだ。
 だから梓は唯に置いて行かれてる気がするのかもしれない。

「そういや、そろそろ親父が風呂上がる頃だな」

 律は突然、風呂の話を切りだしてきた。

「そうなんですか」

「次入る?」

「私は最後でいいです」

 梓は家人の前に入るのも悪いと思ったらしい。

「私は梓の後でいいぞー」

 そう言って風呂をすすめてくる律。

「や、律先輩が先入って下さいよ」

「いまさら遠慮すんなよ〜。梓こそ、どうぞ、先入って、入って」

 そんなやり取りが何度か繰り返されて……やがて律は、ふと何かを思いついたようだった。
 ぽんと小さく柏手を打って、すっと身を乗り出して、悪戯っぽい表情で律は顔を寄せてそっと耳打ちしてくる

「じゃあ、さ」

「……な、なんですか?」

「……やっぱり一緒に入ろうぜ?私の乳揉みテクを見せてやろう。貧乳ペタン娘のあ〜ずにゃん?」

「……!?」

 恥ずかしがらせるための策略――冗談だと分かっちゃいるが、梓は不覚にも動揺してしまった。

「ぐぬ……」

 梓は下唇を噛み締めて動悸を抑えている。胸の事を言われるとすげえ悔しかったのだろう。律先輩の癖に!

「貧乳じゃないもん!律先輩と一緒にしないでください!じゃあいっしょに入って確かめてやりましょう!やってやるです!」

「ははっ!」

 決死の反撃の甲斐もなく、律はワロスと言わんばかりに勝ち誇る顔を止めない。

「諦めろあーずにゃん。高3になっても胸部は全く成長してないじゃねーか。これが生まれ持った格差なんだよ」

 そうおちょくる律の表情は既に何かを悟りきった物だった。
 梓の事を馬鹿に出来ないくらい律もまた貧乳なのである。
 その諦観の念に支配された律が、梓をも巻き込もうとしている構図だった。

「分度器まゆげなんか怖くない。はっはは!」

 拳を握りしめて宣言する律。それを見ていた聡は、出来るだけ視線を合わせないようにした。

「ほら、梓! さっさと行こうぜ! 私たちの風呂場へさあ! 澪と共に練習した私のハイパー乳揉みテクを見せてやるよ!」

「ハイパー乳揉みテクってなんですか!だから澪先輩との格差が広がって行くんですよ!」

「んな事は分かってんだよ!」

 そして律は梓の胸部に手を回す。
 乳は揉むと大きくなるという話だが、澪の乳が大きいのは要は律のせいなのかもしれない。
 だがその先輩のセクハラの構図もすぐに止む。

「わ、わ……」

 そこに現れたのはトイレから帰ってきていた茜だった。
 彼女は両目を真ん丸に見開き、顔を真っ赤にし、両手をばたばたさせている。

「あ、あのね……横川さん……」

 梓は弁解しようとするが、その前にぴくぴくと痙攣していた茜の唇が、明確な意思を持って動き出す。

「ヤ……ヤマピカリャー!」

「よ、横川さん……?」

「ヤマピカリャーとは沖縄の言葉で、イリオモテヤマネコのことです!」


「横川さん帰って来てー!」

 横川茜は興奮すると変なことを口走ってしまうタイプであるらしい。
 しかし、梓にとっては初めて出来た部の後輩なのだ。


 〜Bパート〜

「熱っ……」

 梓は田井中家の風呂に漬かろうとしたが、昔の家らしい風潮なのかお風呂の音頭はとても熱かった。

 正直、この家に来て疲れたというのが梓の本音だった。
 律の祖父はエキサイティングだし、仕事を手伝わされたし、横川茜も遊びに来る始末。
 しかし、それもどこか懐かしい喧騒であるのもまた事実であった。

 風呂には植物が浮いているが、それは菖蒲と呼ばれる物だ。
 田井中家では色んな物を風呂に入れる風習があるのだ。
 しかし梓はそういった物も分からない。
 それと同じで今思えば梓も先輩達についてはよく分からない事だらけだった気がする。

「……髪を洗わなきゃ」

 とりあえず風呂に漬かるにしても、長い髪をそのまま風呂に入れる訳にはいかない。
 ツインテールをほどいて手入れをしようとする。
 と、その時どんどんという足音が風呂場に響く。

「ま、まさか本当に律先輩が……っ!?」

 律と梓は2年前の合宿でも一緒に風呂に入ったはずだが、貧乳仲間としての焦りを見せる律は今やってくるとどんなセクハラをされるか分かったもんじゃない。
 梓は思わず身構えるが、実際に入って来たのは予想外の人物だった。

「中野先輩、お背中流しますよー」

「よ、横川さん!?」

 全裸で入って来たその少女は横川茜だった。
 茜は梓の降ろした黒髪を見て感嘆しているようである。

「うわー。中野先輩の髪を降ろした所とか初めて見たけどお人形さんみたいで可愛いですねー」

「か、可愛いって言わないでよ。横川さん……」

「だって可愛いんだもん」

 いつになくフランクな茜は梓の背中に回ると、首から腕を回して抱きついてきた。

「にゃっ!」

 梓は思わず声をあげるが、茜は何かを納得したようだった。

「なるほど……これがあずにゃん分かぁ」

「な……あずにゃんって、どこから聞いたの?」

 その梓を『あずにゃん』というあだ名で呼べる人物は一人しか居なかった。

「んー、唯さんが言ってたんですよ。中野先輩は猫耳が似あうからあずにゃんだって。それで抱きごこちが凄いんだって〜」

「唯先輩かーっ!」

 横川茜は唯の一人暮らし先であるきらら寮の住人なのである。
 住人同士の交流もそれなりに円滑らしいきらら寮なのだから、唯がある事ない事を茜に吹きこんでいても不思議ではない。
 茜は梓の耳に近づいて囁く。

「ねえ、中野先輩。今度からあずにゃん先輩って呼んでいいですか」

「なっ、変なあだ名で呼ばないでよ!」

 梓は茜の提案に焦るが、茜は頭に?マークを浮かべたように唸る。

「……あずにゃんって変なあだ名だったんですか?」

「いやまあ……」

 茜は困ったような表情を浮かべると、呼び方を変えてきた。

「じゃあ、あずにゃん部長でいいですかぁ?」

「ぶ、部長!?」

 梓にとってその提案は蠱惑的に聞こえた。
 それは『あずにゃん』ではなく主に『部長』という響きに対してだ。

 よくも悪くもダラけた軽音部で2年以上過ごしてきた梓にとって、『先輩』という存在はあまりに身近にあり過ぎるのかもしれない。
 だが『部長』となれば話は別だ。
 梓の顔がだらしなく弛緩するが、その顔を見た茜は何か嗜虐心をそそられたらしい。

「おおっ!じゃあ、今度からあずにゃん部長って呼びますね!」

 梓が我に返った時には既に時遅かった。

「……はっ!何言ってるのよ、横川さん!」

「あー、私の事は茜って呼び捨てにしていいですよ、あずにゃん部長」

「私のあだ名定着ー!?」

 梓は暴れるが、抱きすくめられた状態では抵抗した所であまり効果は無かった。
 こうして茜の中で何かがが確立したのだった。


 〜〜〜〜〜


 結局、梓がちゃんと髪を洗って風呂に入るまでそれなりに時間がかかった。
 我慢しても熱いお湯には入れなかったので、外に居たらしい律に断ってから少しだけ冷や水をかけてから入った。
 それでもちょっとだけ熱かった。
 それが心地よかった。


 〜〜〜〜〜


 それから。風呂から上がった梓と茜は、一つの寝室に招かれて寝る事にした。
 その際に律の爺ちゃんが茜と聡を一緒に寝かせようともしていた。

「わしは孫の顔が見たいんじゃあ!ああ、三途の川で婆ちゃんが手招きしておるわい」

「婆ちゃんは下だっつーの」

 爺ちゃんの暴走は律に突っ込まれて阻止された。

 結局、それから梓と茜は田井中家の客室にある二つくっついた布団で眠りにつく事になった。
 消灯した暗闇の中で梓は天井を見上げて考える。
 
 ここに来て一つ分かった事がある。
 それは茜は聡と旧知の仲なのだという事だ。

「横川さん起きてる?」

 梓は横で寝ている茜に問いかける。

「あずにゃん部長、私の事は茜って呼び捨てにしてもいいって言ったじゃないですか」

「……そう、起きてるんだね」

 梓は茜に対してどう返せばよいのか、まだその距離感を測りかねている。
 ただ茜をスカウトしたのは梓なのだ。
 丁度良い機会なので梓は茜の事を知りたいと思っていた。

「横川さんは律先輩の弟さんと、どんな関係なの?」

 それでもまだ梓は茜の事を名字で呼んでいたが、茜はもう気にしない事にしたようだ。

「聡とは中学時代のバンド仲間だったんです」

「バンド仲間……?」

「そう、聡はドラマー」

 これで茜の謎が一つ解けた。
 彼女がバンドをやっていたのは事実であるという確信だ。
 その元仲間が律の弟である事は予想外だったが、これも一つの運命なのかもしれない。

 その上でもう一つ、梓はカマをかけてみる事にした。

「横川さんは聡君と付き合ってるの?」

 すると茜は思わず噴き出した。

「ち、違いますって!」

「でも泊まりに来たんでしょ?友達の家に」

 この年齢である。異性の家に遊びに行くとなると、”そうした関係”を想像しかねない。
 だが茜はやや冷静になって語る。

「そうですけど……今、私がこうしてるのって聡のお姉さんの頼みなんです」

「へ?律先輩の?」

「ちょっとお姉さんに家に泊まって行ってくれと強引に頼まれまして……そしたら、あずにゃん部長が居たという訳です」

 茜が田井中家に遊びに来て泊まり込んでるのは、律の頼みだったらしい。
 何故そんな事をしたのかは恐らく新軽音部で上手く行ってないかもしれない梓を心配してだろう。

 しかし梓が茜の事を知りたがってるのは事実である。
 丁度良い機会だと思った梓は、疑問に思っていた事を茜にぶつけてみようと思った。

「横川さんはなんでギターを止めたの?」

 それは野暮な質問かもしれない。
 だが梓にとっては率直な疑問ではあった。

 一方、茜はしばし口をつぐんでいた。
 古時計の針を動かす音だけがチクタクと音を奏でている。
 梓はもしかしたら触れてはいけない部分に触れてしまったのかもしれない。
 それと同時に茜と今後どう付き合って行くか見極めなければならないという梓なりの打算があったのだろう。

―――そして茜はゆっくりを昔話をするかのように口を開き始めた。

「みんななんだかんだで楽しくやってました。……でもある日、プロのオーディションに応募しようって事になったんです」

「オーディション?それってプロの?」

「そう。それもソロオーディションです。一人ずつ曲を録音して事務所へ送りました」

 過去のエピソードを語ろうとする茜の口調は真剣そのもので梓も横から口をはさめない。

「…………そしてプロからお声がかかりました」

 話が飛躍しすぎている。本当に茜は天才だったのか。
 しかし次に茜から言いだした言葉は現実そのものが立ちはだかっていた。

「ただし……お声がかかったのは私だけでした」

 プロの目につくという事はバンドメンバーの中で茜の技能だけが突出していたということだろう。
 だが茜は本来は喜ばしいはずの出来ごとに対して、どこか自重的だった。

「プロになろうと思えばなれたんです。でも私は怖くて逃げたんです」

「逃げ……た?」

「ええ。死ぬのが怖くて」

 梓から見たら「死ぬ」というのは一種のジョークに思えた。

「死ぬって……プロになっても死ぬって事はないでしょ」

「いえっ。死ぬんです!麻薬中毒でっ!」

「ま……やく?」

 芸能人やアーティストが薬物中毒で逮捕されたり、薬中毒死するという話はよくある。
 だがプロになったからと言ってそれで死ぬとは限らない。

 しかし茜の恐怖は止まらない。

「……私の好きなギタリストも薬物中毒死で死にました」

「……誰?」

「誰とは言いません。昔バンド組んでた人とのいざこざがあったとかでインターネットでも叩かれてますし……」

 茜の中にある一種の疑心暗鬼。
 茜がギタリストを辞めた理由とは一人だけ選ばれた負い目と、好きだったアーティストの汚名だ。
 それがどういう類の物なのか梓にはいまいちよく分からない。
 だが茜には茜なりに深刻な悩みだったのだろう。

「だから私はなんか嫌になったんです。事務所には断りを入れました。そして桜高に来ました」

 そう語る茜はどこまでも彼女にしか持ちえない悩みを、それでも彼女なりに深刻に抱えていた。
 茜の語る思いは文脈がぐちゃぐちゃだ。でもそれだけ茜の中で解決しきれてない問題なのだ。

 ただ梓は一つだけ気付いた。
 それは横川茜は桜高に通う為に全てを投げ出したのかもしれないという事。

「……どうすればいいんでしょうね、私」

 今にも泣き出しそうな茜。そんな彼女に梓は何が出来るのだろうか。
 涙を拭ってやることか、唯のように抱きしめてやる事か、それとも何もしないか。

――ーそして梓が選んだのは……

「大丈夫だよ、多分」

 そう言って茜の手を握ってやる事だった。
 それが最善だったかどうかは分からない。恐らく唯だったら別の手を取っていたのだろう。

 だが梓は茜の手を握った。力細いながらも確かに握りしめる。

「……ありがと。あずにゃん部長」

 暗闇の中で茜の表情は見えなかった。
 だがそう言ってる茜は笑ってるのだろうと梓は思いたかった。
 確かに手を結んだまま、新しい日常は少しずつ過ぎ去って行く。




 それから茜は落ち着いたのか、少しずつ下らない事を話し始めた。

「そういやあずにゃん部長」

「……なに、横川さん?」

「ツインテールより髪を降ろした方が可愛いと思いますよ」

「……そう?」

「うん、そうですよ」

 先ほど風呂に入った時、梓は髪を降ろした時の姿を茜にみられたがそのことを言ってるのだろう。

「……そっか」

 梓が田井中家に来たのも前髪を降ろして眼鏡をかけた律と偶然にも再会したからだ。
 梓は律の変化を地味子と呼んで馬鹿にしたが、律なりにイメチェンをしようとしたのだろう。
 梓も心機一転しなければいけない時期なのかもしれない。

「……しゃれこうべ」

 そして茜は特に意味もない下らない事を呟く。

「プッ」

 なんとなく梓は笑ってしまう。
 少しだけ打ち解けたのかもしれない。

―――次の登校日。

 梓はいつものツインテールを止めて髪を降ろした。
 梓なりのイメチェンという奴だ。

 放課後ティータイムで過ごした時期が無駄だったとは思わない。
 だが梓は精一杯、今を頑張って行こうと思ったのだ。

「おはよう、憂、純」

 そして挨拶を交わす。だが帰って来た反応は予想外の物だった。

「誰!?」

「ちょっ!」

 それでもイメージなんてのはすぐには変われない物だけど。

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